一度失ったバンド
- Masumi Kimura
- 2023年10月28日
- 読了時間: 3分
2009年1月16日 渋谷のLa.mamaへ、その頃夢中になっていたJET LAG MAKERSを観に行っていて、その日の対バンがDENIALだった。
雷に撃たれるとはこういう事をいうのかと思うほどの衝撃だった。当時のオカヒロさんは、まだ本名も年齢も明かしておらず(笑)下唇の下にひげをはやしていた。だけど白シャツを着てあの端正な顔立ちで、青いムスタングを掻き鳴らしていた。もう穏やかになり始めていた時期ではあったと思うけれど、ステージ上ではオーラというか何というか…近づいたら危険な空気が滲み出てはいた。
かと思えば、ライブ終わってフロアに降りた時はフランクで、肩に手をまわして写真撮影に応じてしまうような人だった。アイスクリームが好きで、デニムのポッケにHERCOのピックを入れて「いつも入ってる。ポッケで育ててるんだ!」と不思議ちゃん発言を子供みたいにしていた。(ビスケットじゃないんだから、育つかぁ~ぃっ!)
20代の私は、本当は自由人の素質を持っているのにも関わらず、子供時代の苦しみを引きずっているせいかどこか委縮しながら生きており、毎日がしんどかった。全世界が敵のような気もしていたし、放っておけない危うい感じがしたと言われることもあった。
そんな時にであった音楽たちは、どれも自分の世界を守ってくれるものとなった。
その中でも特に私にとってDENIALは、私自身を解放させてくれる音楽であったと思う。
あのライブでの30分強の時間だけは、私は私のままで居られたし、魂を解放することができた。…大袈裟ではなく、本当に。
カートコバーンに憧れて、吉井さんに背中を押されてDENIALを始めたオカヒロさんは、過去に「I HATE MY SELF AND I WANT TO DIE」なんて曲を作ったが、私が出逢った頃には既に心・開けており「ずっとギター弾いてきて、今が一番楽しいかもしんない。」と言っていた。そして「Surrender」という曲を作るようになっていた。そんな人から表現される世界は、救いみたいなものだった。
そんなDENIALが活動を休止していた期間、私の中ではいったん時が止まっていたというか…私の中では、1回DENIALは死んだ。まっしょいくんもいなくなり、DENIALが戻ってくる気もしなかったから。失われた空白の中で、私はどこかしらスリーピースというものを追い求めていたんだと思う。
submenに出会いNebulaに出会い、FOOLAに出会ってTHE ANDSに出会った。三つのピースがそれぞれの形を形成していて、それらが向かい合う瞬間がとても美しくて尊い。
決して代わりとなるものでもなく、比べられるものでもなく、どのバンドも心から好きだと思う。ただ私の根っこにDENIALがあるというだけ。
そんなDENIALが2023年3月26日に突如として帰ってきたのには驚いた。そしてベースを奏でるのが曽我さんだったから尚更。いったいどういう事なのだろうと思った。
曽我さんといえば、2008年12月までJET LAG MAKERSのサポートベースをつとめていた。私がDENIALに出会った日の前月までだ。(凄いニアミス!)
それからもずっと大好きなベーシスト。Blanket CherryでもONE NIGHT STANDでも…Ryujiさんとのライブでも、私の好きな場所にいつも居てくれる(笑)
あの轟音の中でちゃんと下支えしてくれる色のあるベース。そして古くからオカヒロさんを知り尽くしているOkajiさんのドラムがなかったら今のDENIALはないでしょう。好きが少し長過ぎて、ファンの期間があり過ぎて、自分から撮る事は申し出ないようにしていたこのバンド、明日撮る事になりました。
浴びるような音楽を、救いのある音楽を。



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